曹洞宗 福聚山観音寺(ふくじゅさんかんのんじ)郵便番号956-0862 新潟県新潟市秋葉区新町2-5-51

住職の写真

【福聚山 観音寺】

宗 派
曹洞宗
本 山
永平寺、總持寺
本 尊
聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)(聖徳太子御作)
開 創
元和元年(1615年)
開 山
奪山文能(だっさんぶんのう)大和尚(本寺 正法寺六世)
外護者

前丹州臺勝院殿應明邦山(ぜんたんしゅうだいしょういんでんおうめいほうざん)大居士
(新津15代丹波守勝資)
前丹州新津院殿玄補英通(ぜんたんしゅうにいついんでんげんほえいつう)大居士
(新津16代丹波守秀祐)

札 所
蒲原33観音霊場第10番札所
現住職
二十世 阿部(大観(たいかん))正機

【略縁起】

本堂のお厨子の中にご安置されているご尊像、本尊聖観世音菩薩は聖徳太子の御作で、身丈一尺二寸なり。
その昔、人皇三十一代用明天皇の時代、疾病が流行し人民が多く悩まされた。聖徳太子はこれを憂い憐れみ、自らこの聖観世音菩薩の尊像を彫刻し、日々妙法蓮華経観世音普門品をお唱えすると、疾病に苦しむ者瞬く間に平癒した。聖徳太子は報恩のため、摂津難波津にお堂を建立し、この尊像を安置した。
その後、時は遷り変わり中古当国の太守、上杉家の家臣新津丹波守の家に伝来し、持仏堂の本尊となる。時を同じくして新津家の内室に子が生まれた。この内室は嫉妬心が強く、夫丹波守には側室がいて、いよいよ愛憎の執着が深くなり、家より北西にある大きな池に子を背負って身を投げ入れ帰らぬ人となった。この魂が大蛇となりこの池に住んだ。丹波守はこのことを聞き、早く成仏するようにと願っていたが、群雄割居時代の故にそのままにしておくと、その後大蛇は丹波守と側室をひと呑みにしようと館を目指して向かって来た。これは悪霊の大蛇であるといたしかたなく思い、武勇をもって鎮めることは難しいため、霊験感応あらたかな持仏堂の本尊聖観世音菩薩を大蛇の真っ向に投げ入れ、一心不乱に祈ると遂に丹波守は悪霊の大蛇を解脱させたのでした。
その後しばらくの間尊像の行方は不明であったが、時遷り経てご本寺正法寺六世奪山文能禅師の時代、ご本寺の境内に梨の樹林があり、その樹の上に飛来され光明が赫々と放たれている尊像を発見し、領主に尋ねると以前に悪霊を鎮めた尊像であり、吾が持仏堂のご本尊になられよと、正法寺にご縁があり吾が境内の梨の樹の上にご来迎されたのだろうということ。よって文能禅師に一境内地を与えて本堂を建立し、この尊像を安置することとなった。これが由緒となる。
それ以来霊験感応あらたかな蒲原三十三観音の第十番の札所となる。また霊蛇の住んでいた池を親子潟といっていたが近世になり埋まり数百町歩の田畑となった。しかしその所を今も親子潟といい、大蛇の漕ぎ来た跡は堀となり、蛇堀といって今尚ある。幅はおよそ四・五尺である。この堀より西北の方を望めば丹波守の古城跡にて、いわゆる楯の腰見通しなり。
嗚呼大悲薩埵は慈民の涙を垂れさせ漏らさせ救う、ご本願ゆえに一度足を運び、信心帰依の私たちは病難災禍を除き、寿命延長、諸願満足、現当二世の大安楽を得ること間違いない。

本尊聖観世音菩薩 聖徳太子御作  蒲原巡礼第十番の札所

『よもすがら 月はや満屋に かげさ恵て 新津河勢乃 波乃志良計志』
越後の国新津町 福聚山観音寺

【観音寺400年のあゆみ】

お地蔵様の写真

今から1400年前、用明天皇(聖徳太子の父)の時代、疫病(天然痘)が流行し、聖徳太子はこの事を憂い、自ら聖観世音菩薩のご尊像を彫刻し、毎日お観音様のお経をお唱えし感染を鎮めました。その際太子が彫刻された聖観世音菩薩が観音寺のご本尊さまです。
時が遷り天正年間、越後上杉家の家臣で新津城主12代新津丹波守景資の家にご尊像が伝わり持仏堂のご本尊さまとなり、ある時には悪霊の大蛇をも解脱させたのでした。
その後、ご尊像の行方は不明でしたが、ご本寺正法寺6世奪山文能禅師が、正法寺境内の梨の樹に飛来されているご尊像を発見し、16代新津丹波守秀祐より城下の山谷の地に境内地を与えられ、そこに本堂を建立しご尊像を安置し、元和元年(1615)観音寺を開山したのです(慶長12年(1607)新津の熱赤丸という篤信家が山谷に草創した観音庵が始まりともいわれる)それ以来霊験感応あらたかな蒲原三十三観音霊場となるのでした。
文政元年(1818)火災により伽藍を焼失、同3年(1820)十世中興雪蹊梅童大和尚が伽藍復興をされる。
明治13年(1880)再び類焼するも、15世道光卍元大和尚により、本堂、庫裡、鐘楼が再建。
明治41年(1908)6月29日、佐助火事により伽藍全般を類焼する。その当時新津町は石油産出量が日本一を誇り、運搬するため鉄道線路拡幅計画があり、焼失後新町の地へ移転する。
明治42年(1909)堂宇を建立し、同43年(1910)、17世瑞雲全竜大和尚により入仏式を営む。
17世、18世、19世の3代による念願の本堂が、19世重興大杲正栄大和尚代、昭和41年(1966)6月建立。その後寺檀一如で、伽藍も整い、観音寺の法燈を護持、隆昌いたし、平成27年(2015)には開創400年、令和2年(2020)には開山400回忌をお迎えし、厳粛に法要を勤める。

【曹洞宗】

おみくじの写真

曹洞宗の流れは、インドでお生まれになられたお釈迦さまの教え・おさとしを、幾世代にも渡って祖師方が悟りの生活を通して師匠から弟子へと受け継ぎ、インドから中国そして日本に伝えられてきたものです。 曹洞宗の源はお釈迦さまですから、ご本尊さまはお釈迦さまです。そして、お釈迦さまの教えを日本に伝えられ、道元禅師を「高祖」とあがめ、瑩山禅師を「太祖」と仰ぎ、このお二人の祖師を「両祖」と呼び、この三師を「一仏両祖」としてお祀りしお慕い申し上げ、信仰の誠を捧げているのです。 拝む時は「南無釈迦牟尼仏」と、お唱えして礼拝します。

≪永平寺≫

福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。總持寺と並ぶ日本曹洞宗の大本山であります。山号を吉祥山と称し、寺紋は久我竜胆紋であります。開山は道元禅師、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏であります。 大本山永平寺は1244年、道元禅師が45歳のとき、波多野義重公の願いによって、越前(福井県)に大仏寺を建立し、2年後に吉祥山永平寺と改められたことに始まる(坐禅)修行道場であります。 寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝の時の元号「永平」からであり、永久の和平という意味であります。 道元禅師示寂後の永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介のもとで修行と整備が進められた。しかし4世義演の時、外護者波多野氏の援助も弱まり、一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めました。 1372年、後円融天皇より「日本曹洞第一道場」の勅額を受け、1615年、徳川幕府より法度が出され總持寺とともに大本山となりました。 深山幽谷の地にたたずむ山門、仏殿、法堂、僧堂、庫院、浴室、東司の七堂伽藍(伽藍:僧侶が修行する清浄な場所)では、今も修行僧が道元禅師により定められた厳しい作法に従って禅の修行を勤めています。

≪總持寺≫

能登に諸嶽観音堂という霊験あらたかな観音大士を祀った御堂がありました。そこの住職である定賢権律師が、元亨元年(1321)4月の晩のこと、夢枕に僧形の観音様が現れ、「永光寺に瑩山という徳の高い僧がおる。すぐ呼んでこの寺を譲るべし。」と告げて、姿を消されたというのです。その5日後の明け方、羽咋の永光寺方丈の間で坐禅をしていた瑩山禅師も同じような夢のお告げを聞きました。禅師と律師はともに感応道交し、律師は一山を寄進し、禅師は快く拝受しました。 寺号はここに仏法が満ち保たれているとして「總持寺」と改名し、山号は諸嶽観音堂の仏縁にちなんで「諸嶽山」とし、翌元亨2年(1322)瑩山禅師59歳の時、後醍醐天皇により、「曹洞出世の道場」に補任され、總持寺は曹洞宗の大本山たることとなりました。 瑩山禅師によって開創された大本山總持寺は、13000余ヶ寺の法縁寺院を擁し、能登に於いて570余年の歩みを進めてまいりましたが、明治31年(1898)4月、本堂の一部より出火、伽藍の多くを焼失してしまいました。

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